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ちいさな手のひらを広げて
いっぱい笑ってちいさな子どもと向かいあって“いない、いない、ばあ”をしながら、いわさきちひろさんの絵を思い出し、『あ、ほんとうだ……』としみじみ思ったことがあります。
それは、頭の上にことりを乗せた女の子の絵で、絵本の表紙や、ポストカードにもなっています。丸い顔をしたおかっぱの女の子。両目を大きく見開いています。
頭にとまっていることりを驚かさないように、じっとしているようです。
口元に両手を持ってきて、声を出さないようにしているのだけれども、広げたその手のひらが、顔の大きさに対して、とてもちいさいのです。
パーにして、指を広げているのに、隠すことのできる面積が少ないのです。
試しに自分で真似してみると、口、鼻、目、おでこまで覆うことができます。
そういえば、生まれたときは手も足も、頭の大きさに比べると、とてもちいさい……
足は靴のサイズが変わるから成長を意識するけど、手は手形をこまめにとったりしないと実感するのが難しいのですね。
手形と一緒に、できれば顔型?!(絵の具が鼻の穴に入ったりして、実行するのは大変そう。だいたいの大きさを書いておくだけでもよいでしょう)も一緒にとっておくと面白いと思います。足のほうが、大きくなるのが早いのではないでしょうか。
ちひろさんは、顔と手の比率を正確に描いていたのですね。『ぼくのパパは……』シリーズの子どもたちも楽しそうに口に手をあてて笑っています。
やはり、顔の大きさに対して、手のひらがとてもちいさいのです。
2歳から3歳くらいでしょうか?
あの女の子と同世代のようです。絵本に登場するのは、子どもと大人。1対1で過ごす楽しい時間。
それぞれ、父親は大男で、母親は魔法使い、祖父はチャンピオンで、祖母はスターとタイトルにありますが、決して、大男ファミリーのお話ではありません。ちいさな子どもの視線を通した日常が描かれています。
ユーモアたっぷりのカール・ノラックさんの文章では、手について詳細は触れられていないのですが、イングリッド・ゴドンさんが描く大きな手とちいさな手が、まるで表情をもっているかのようにお話をひきたてています。“大男”のパパの手は、顔をすっぽり覆うくらい大きい手。
ごつごつしていて、自分で何でもできる自立した手です。
けれども、ぼうやを抱っこしている最後の場面では、丸く、やわらかい表情をしています。
……『ぼくの パパは おおおとこ』
“魔法使い”のママは、太い腕を持っていて、手もたくましいです。
子どもと一緒に横になり、子どもの頬をやさしくなでている場面では、指の先までリラックスしています
……『わたしの ママは まほうつかい』
孫とないしょばなしをする祖父の手は、刻まれた皺も見えてくるようで、
……『わたしの おじいちゃんは チャンピオン』、
空を見上げながら、孫とつないだ祖母の手は、とても美しく魅力的です。
……『ぼくの おばあちゃんは スター』。ちいさな子どもから、世の中は広そうだけど、この大きな手の人といっしょならば大丈夫、という信頼を得られるのは、ありがたく、とても嬉しいことです。忘れないようにしないと。
ちいさな手のひらを、いっぱい手の平を広げて、いっぱい笑って大きくなって欲しいなと思います。ところで、手と顔の比率はあっという間にかわります。
小学生になると、だいぶ顔を覆えるようになります。
手のひらが大きくなると、いろんなことができるようになります。
つまり、“手のひらですっかり顔を覆えるようになると、反抗期の入り口に立つ”ようです。『ぼくの パパは おおおとこ』、
『わたしの ママは まほうつかい』、
『わたしの おじいちゃんは チャンピオン』、
『ぼくの おばあちゃんは スター』
……もしまわりにちいさな子どもがいて、自分がどれかに当てはまるのであれば、どうにも照れてしまうと思われるタイトルばかりです。
けれども、手と顔の比率の変化同様、こんな甘~い時期はあっという間に過ぎます。
ちいさな子どもと一緒に、絵本の頁を開く時期もあっという間です。
やがて(もっと、もっと一緒に手をつなげばよかった!)という日がやってくるのでしょう。
このシリーズは、子どものための絵本であるのはもちろんですが、
まぶしい一瞬を切り取った写真が並ぶアルバムのように、
過ぎ去った日々を思い出しながら大切に開く絵本でもあると思います。『ぼくの パパは おおおとこ』
『わたしの ママは まほうつかい』
『わたしの おじいちゃんは チャンピオン』
『ぼくの おばあちゃんは スター』カール・ノラック/文
イングリッド・ゴドン/絵
いずみちほこ/訳31×22cm 25P
申し訳ございませんが、すでに絶版となっております